Chienomi

2000-2005年ころのLinuxとインターネットとパソコン

Live With Linux::misc

今はすっかり整備されて、普通に使えるようになったLinux環境。

あれから15年、20年という時がたち、もうユーザーの中でそんな昔のことを知らない人が圧倒的に多い、という状態になっているから、あのワクワクするようなカオスの中にあった時代の話をしようと思う。

今からすれば考えられないようなことばかりで、とても信じられないような話がいっぱいだ。 きっと、今の若い(年齢的な意味でなく)ユーザーにとっては興味深く聞けるのではないだろうか。

この記事は至って懐古的なものであり、過去のLinuxやインターネットの姿というものが今や検索してもあまり見つからないことから、それを残そうという意図によるものである。 また、この記事はあくまで私の主観的な観測に基づいていることをご了承いただきたい。

Linuxブームさりし日々

2000年は、それ以前に吹き荒れた「Linuxブーム」が去った直後である。

まだ未熟なLinuxに対して、人々が何を期待したのかはわからないが、だいたいほとんどの人が「インストールした」で終わった。 実際、当時のLinuxを実用するのはなかなかハードルが高かった。

今のLinuxユーザーには信じられないかもしれないが、起動するとLinuxが利用可能な環境でスタートする「ライブCD」というのは、もっと後になってからKNOPPIXが採用して話題になったようなものであり、ごく一部の例外を除けば「起動するとインストーラーが起動し、マシンにインストールする」というものだった。お試しなどないのだ。

いや、これすら正確ではない。 2000年だとまともなインストーラーなんてなかった。だから、インストーラーのあるディストリビューションは人気になった。Debian GNU/Linuxが人気になったのは、なによりまず「インストーラーがあったから」だと思う。

とはいえ、Debianのインストーラーはテキストインストーラーで、今の人が普通にイメージするようなものではなかった。

私はDebianの古いイメージは持っていないので、Vine Linuxのテキストインストーラーを示そう。

テキストインストーラー (Vine Linux 3)

テキストインストーラーで一世を風靡したDebianだが、実はグラフィカルなインストーラーの導入はかなり遅かった。 同じ理屈で、グラフィカルなインストーラー(Anaconda)を早期に導入したRed Hat Linuxは素晴らしい人気を誇った。

グラフィカルインストーラー (Vine Linux 2.6r3)

Red Hat LinuxというのはRed Hat社が出していたフリーのディストリビューションだ。 現状では、Red HatはFedoraというディストリビューションに関わっているけれども、あちらはコミュニティ主導。Red Hat Linuxは完全にRed Hat製だった。

「普通の」Linuxユーザーであればほぼ間違いなくRed Hat Linuxを使っている、というくらいメジャーだったのだ。 だいたい、「マジで使っている人はDebian、ニワカはRed Hat」みたいな状態だったと言っていいし、ほぼほぼ「Linuxの本」といったらRed Hatだった。

もっとも、それしかなかったわけでもない。

例えば、株式会社レーザーファイブによるLaser5 Linuxなんかは結構人気があった。 Red Hat Linuxをベースにしつつ、日本語環境に最適化して色々いじってあったり、マニュアルが付属していたりした。 サポートなしで6800円、サポートありで12800円とかだったようだ。

日本語のLinuxといえばVine Linuxの存在感も大きい。 「インストールしてみた人の最も多いLinuxディストリビューション」とか言われていた。 同じようなものとしてはKondara MNU/Linuxもある。

当時は、ディストリビューションはフリーで配布しつつ、有料のパッケージ版がある(商用ソフトなどがバンドルされている)というビジネスモデルが多かったのだが、全体的に低調だったようだ。

この流れでいうと忘れられないのがTurbolinuxだ。 TurbolinuxはWindows Media PlayerライクなメディアプレイヤーやAtokをバンドルし、初心者向けLinuxとして日本で最も成功したLinuxディストリビューションパッケージのひとつだ。 だが、ライブドアに買収されて以降は悲劇的な末路を辿った。

だが、いずれにせよそのようなLinuxビジネスは限界に来ていたのは間違いない。

Ubuntuが流行ったのは日本語remixが登場した2008年からで、ずっと先のことである。

まぁ、それ以外にも色々ハードルが高かった。

BIOSであり、デュアルブートの安定性に乏しかった、というのもあるが、資料がなくてインストールするのも運用するのも大変だったし、トラブルは全般的に多かった。 最も厳しかったのはNvidiaカードを搭載するマシンだ。Nvidiaカードだとディストリビューションに含まれているドライバでは画面が出なくて始まる前に詰んでる、みたいなことがあった。

言葉の壁

当時、今では考えられないくらいコンピュータの世界には言葉の壁があった。

最も大きいのは、「今はだいたいUTF-8である」ということだろう。 これが通用することになって、永遠に解決しないのではないかと思われた壁が解決されたのだ。

当時、Linuxは一般的にEUC-JPを採用していた。 文字集合が違うので、言葉が違う国に住んでいる人は、違う言葉を使う人の事情を想像することはなかったし、そもそもメッセージを交換すること自体ができなかった。

今でこそアジア言語に関しては中国の存在感が強いものの、当時は日本が先駆者だった。 そして、「ワイド文字」などの問題で凄まじい苦労を抱えることになったのだ。

だからほとんどの場合、「日本語対応ソフトウェア」が必要になった。 表示は、かろうじてできることも多かったが、日本語の入力なんて到底できなかった。 考えられる方法は、「日本語対応ソフト」を使うか、日本語化パッチを使うかだ。 Vimだって、日本語化パッチのあたったjvimを使っていたのだ。

さらに、難敵だったのが日本語入力の方式であり、IMEを必要とする言語が他になかったので、いかにしてIME経由で入力を受け取ってもらうのか、みたいな異様な苦労があった。 だから、VimやEmacsはそれ専用のものがあったりした。

当時のIMEはkinput2だった。 日本語変換はクライアント/サーバー方式で、Canna, Wnnが一般的だった。 もちろん、マニアックな人はSkkを使っていたけれども、変換精度の問題でマニアックでなくてもSkkを使うのにはそれなりの魅力があった。

Fedora Core2からIIIMFという多言語入力機構が採用された。この頃、日本語入力用のuim、韓国語入力用のSCIMが出てきて、IIIMFからSCIM、そしてiBus、Fcitxと移り変わっていくことになる。

端末はxtermベースで日本語表示のできるktermを使っていた。 lessも日本語表示はできなかったので、jlessというものを使っていた。

メッセージの交換でもこの文字集合と文字エンコーディングの壁というものがあり、UTF-8に移りゆく中でもメールが文字化けするとか、色んな問題が起きていた。

さらに言うと、LinuxやUnixではEUC-JPなのに対して、WidnowsやMacではShift JISベースだったわけで、ここにも断絶があった。言葉の壁は果てしなく高かったのだ。

Fedora Core 2がIIIMFを採用したあたりは時代の転換点になっていたと思う。 日本語変換もサーバーを使わないAnthyが登場し、優れた変換性能と軽さとなった。 AnthyはUTF-8に対応していなかったが、UTF-8が至るところに登場し始め、システム言語もja_JP.EUC-JPからja_JP.UTF-8に移り変わっていき、日本語専用ソフトやパッチ当てみたいなものがなくなっていった。

なお、変換の話に関しては若い人のためにもう少し不足がいるかもしれない。 元々、Windowsは日本語変換機構を含めてMS-IMEを、Macはことえりを採用していた。 これらはどちらもIMEだが、変換機構に別の名前がついているわけではない。

MS-IMEのとんでも変換っぷりはまとめられて書籍になるほどすごかったのだが、それでもことえりほどぶっ飛んではいなかった。いや、昔のことえりは常識で考えて、というか、もう何をどう考えていいかわからないくらいひどかった。 Cannaの変換は両者の間くらいだ。 MS-IMEは文脈を無視して使用頻度の高い文字が優先して来るようになっている。ただ、文節の分け方はおよそ適切であり、使い込んでいくと自分が使う言葉を選択してくれるようになるので、そこそこ使えた。 一方、ことえりに関しては文節の切り方がめっちゃくっちゃで、変換候補の順序もものすごくおかしい、というものだった。 Cannaは、文節の切り方はだいたい合っているけれど、変換候補の順序がおかしい上に、普通の文字が候補にない、という感じだった。

Cannaでの変換

デスクトップと文字

実はGNOMEは結構変遷が激しかったデスクトップである。

GNOMEのウィンドウマネージャはEnlighenmentからSawfishになり、そしてGNOME2になってNautilusになるのだが、そのたびに見た目も操作感も大きく変わった。

GNOME1の頃はいかにもUnixっぽい、今となってはなかなか馴染みにくいUIだった。それがだんだんWindowsっぽいものになり、GNOME2はWindows感があったのだが、GNOME 2.4だったか2.6だったかでデフォルトのパネルレイアウトが「上下」になり、Macっぽいレイアウトになった。 これはGNOME2の間ずっと継続し、今はMATEに引き継がれているから馴染みのある人もいるかもしれない。

だから、正直私の感覚としては、GNOMEデスクトップはずっと完成度は高くなかった。 ただ、GNOME 2.6以降はずっと同じような感じで改善されていったから、安定した感はあった。 私はKDE3を使っていたので、そもそもあんまり好きではかなったんだけれども。

KDE3はだいたいWindowsっぽい感じだった。というか、Windowsよりもだいぶモダンで、スタイリッシュだった。 4:3だった狭い画面の中では、パネルがWindowsのタスクバーのようにウィンドウリストを表示していたのだけれど、多段化できるというのが大きかった。 ちなみに、これはWindows 98とか2000とかとの比較の話だ。

Windows Vistaが登場するよりも前にKDE4が登場する。 KDE4はWindows 7で採用されたような3Dウィンドウ、透過色のある立体的なUI、階層化されたメニューなどを採用しており、非常にスタイリッシュだった。 アクティビティやデスクトップレイアウト、ウィジットなど非常に特徴的な機能がたくさん入ったのだが、そのほとんどはKDE Plasma 5で廃止されたり、縮小されたりしてしまった。

WindowsだとWindows XPで一気にモダンになった感じがするだろうが、これはGNOME 2になったときに感じた変化に近い。 一方、KDE4はもっと「未来を感じる」ものだった。とはいえ、KDE4の登場はもっともっと後のことだ。

そうした中で最もインパクトが大きかったのは「GTK+2の登場」だ。

GNOMEは要はGTK+を採用したデスクトップだった。 GTK+はフォントのアンチエイリアスに対応しておらず、文字はガッタガタだった。 実はWindowsの文字に関しては、Windows 98で結構改善していて、Windows 95と比べると整って見える。そして、Windows 3.1まで戻ると本当にガッタガタになっている。GTK+のフォントレンダリングは、だいたいWindows 3.1みたいなもので、まぁひでぇもんだった。

それがGTK+2になったときにアンチエイリアスが入り、目が潰れそうなほど字が綺麗になった。 これはGNOME2になったときにデスクトップ全体が変わったというのもあるけれど、GTKアプリがGTK+からGTK+2になったときも大きな変化だった。 例えばメールクライアントのSylpheedはバージョン2(長らく1.9として出されていた)がGTK+2になっており、このときに大きな変化を感じることになった。

私の中では最も「時代が変わった」と感じる瞬間だった。 ワープロの文字とかもそうだけど、ほんっときったねぇ文字だったのだ。 それがスムーズな文字になって、画面が綺麗になった。

Red Hat Linux 9 GDM
Red Hat Linux 9 アイコンパレード
Red Hat Linux 9 デスクトップ(GNOME2)
Gtk+アプリの描画 (Red Hat Linux9, Emacs)
Gtk+2アプリの描画 (Red Hat Linux9, Gedit)
現状めいっぱい綺麗に描画してみた
KDE3 (Momonga Linux2)
Gnome2 (Momonga Linux2)

そもそも、GNOME1は絶対的な人気、というわけでもなくて、当時は普通にIceWMのユーザーとかtwmのユーザーなんかがいた。GNOME2.6, KDE3, XFce4になってようやくだいたいみんな使っている、というレベルになったのだ。

フォントに関しても、和田研フォントや東雲フォントといったビットマップフォントから東風フォントになり、東風フォントのデザイン剽窃(トレース)騒動から東風代替フォントからのさざなみフォントの登場、そしてより品質の高いフォントとしてM+ OUTLINE, VLゴシックが登場し、時同じくしてIPAフォントが登場、という流れであり、フォント自体も大きく変化した。

ちなみに、私が知る限り最も描画がひどいのはOracle Java。

Oracle Java WebStartで将棋倶楽部24

普通に使えるようになっていくまで

今の状況からすれば意外かもしれないが、LinuxをデスクトップOSとして使う、というのは一般的な感覚ではなくて、Linuxの書籍といえば「サーバー」だった。

だからLinuxのデスクトップアプリというのは結構乏しかったのだ。 エディタはVimやEmacsがあるじゃん、と思うかもしれないが、それはGUIがクセが強くて操作しにくいtwmがあるからそれでいいでしょ、というのと同じようなことで、明らかに普及を妨げる。

個人的には大きかったのは、LeafpadとSylpheed、そしてFirefox。

Gtk+からGtk+2になった、というのも大きいけれど、正直なところRed Hat Linux 7を実用しろと言われるとそれなりに根性が必要だった。

もちろん、私としては今なら普通に使えるとは思う。 そして、実際私はRed Hat Linux 7を使っていてとても楽しかった。

だが、実用的な厳しさというのは色々あったのだ。

まず世の中だいたいIE前提になっている時代だ。 ウェブブラウザの戦争による断絶が発生しており、Linux上のウェブブラウザはNetscape Navigator 4だった。 私はNetscape Navigator 4.7までNN派としてがんばっていたくらいなのだが(最終的に4.81まで使っていた)、それでも現実的にNNでは動かない、見られないということが割とよくあった。

メールに関してもどれも決め手の欠ける状態だ。Thunderbirdが出たのはFirefoxと同時期だから2004年の話で、正直どれも微妙なものだった。私なんてvinとかmnewsとか使っていたくらい。 実はメールはWindowsもWindowsで結構微妙ではあった。Outlook Expressは脆弱性にせよ、迷惑度にせよヤバイ代物だったし、Becky!とか、Eudoraとか、そんな感じだったのではないだろうか。私は電信八号を使っていた。

連絡はだいたいICQとMSN Messangerだが、そこに乗っていくのは難しかった。 Yahoo! Messangerは方法があったが、日本に関しては違いがあるため使えなかった。 そして、新しく登場した画期的なビデオチャットツールであるSkypeもできない。 あるいは、マイナーなOdigoもできないのだ。

結局、そうした日常的に楽しんでること、特にコミュニケーションに関することが弱いとありとあらゆる面で辛い。

また、デスクトップの使い勝手にしても、まだGNOMEはUnix的な操作感が残っている頃で(KDEだと困らなかったが)、例えばウィンドウラベルをダブルクリックすると最大化ではなくシェードされたりするし、「ルートウィンドウでボタンホールド」という操作も残っていた。 このあたりはRed Hat Linux 9でもまだ残っていて、基本的なGUI操作もやりづらい。

なんだかんだ、新鮮さとか、他の人と違うという部分だとか、色んなところでワクワクするから楽しいのだが、使いやすいか、と言われると「うーん……」となってしまう。

それが、Mozilla Application Suiteになって、世の中が標準的なwebに近づいていくとこうした問題がだんだん解消される。それは、Netscape MessangerからMozilla Mailになったメールクライアントが利用できるということでもあるし、同時にOperaも台頭したことでOpera Mailも使えるようになった。 さらにメールクライアントはSylpheedが登場したことも大きい。Evolutionは日本語メールでは文字化け問題が出てしまい、Evolutionが使えるようになるのはまだまだ先だ。

そして大きな進展となったのがGAIMである。 AIMのクライアントとして登場したGAIMだが、Paa Messangerなどどうようにマルチプロトコル対応であった。 Yahoo! Messangerに関してはJapanに対応したのはGAIMがgaimに改名してからだが(現在はPidginと改められているが、現役だ)。

VimやEmacsなど、強硬な古参がいる分野においても、Geditのような(彼らからすれば軟弱な)アプリが登場してきた。 日本人としては、日本語テキストのエンコーディングに悩まされるのは日常茶飯事だったから、それをうまく処理してくれるLeafpadの登場は非常に大きかった。

私自身に関しては使わないので影響はなかったが、OpenOffice.orgの導入も大きかっただろう。 それまでオフィススイートに関しては結構な隔たりがあったので、だいぶ「仲良くできる」ようになった。

メッセンジャーアプリなども同様の流れだが、既にWindowsにリファレンスになるようなソフトウェアがある分野では、よりメリットを感じられるようなてんこ盛りのアプリになる傾向があり、結果的により使いやすいものになった。 gaimはマルチプロトコル対応であり、機能的にもUI的にも使い勝手はより優れていた。エディタも、Windowsのアプリにはないような充実の機能が用意された。 WinampのクローンであるXMMSの登場(現在はAudaciousに至る)など幅広く対応され、MPlayerはWindowsでも動画形式によってそれぞれ異なるアプリが必要である(WMVのためにWindows Media Player, Real MediaのためにReal Player, MPEGのためにQuickTime)という状況を解決してくれた。

QuickTime Player

こうした拡充が進んでいくと、Windowsより優れたアプリが揃っていくことになるから、結果的にデスクトップOSとしての使い勝手が逆転していく。FirefoxやThunderbirdが入るに至ると、もはや「Linuxだから…」というようなことは全くなくなってしまった。 これは、「IEを必須にするようなウェブサイトが減少した」という事情も含んでいる。

あとは2ちゃんねるだろうか。

当時は2ちゃんねるはインターネットにおける時代の先進であり、文化圏によらずそこそこディープにネットしてる人はみんなやってるくらいのものだった。 もちろん程度はまちまちだったが、2ちゃんねるはトピックスが非常に豊富であり、だいたいあらゆる人が必要とする情報が集約されていた。

必然的に、2ちゃんねるを利用する環境というのもLinuxで色々整備された。 Gtk+2アプリとして書かれたおちゅ〜しゃ、JD、そしてKDE3アプリのKita、あるいはEmacs上で動作するnavi2chなどだ。 これは、Linux上でもTwitterクライアントが作られたのと同じような話だ。 Linux上で2ちゃんねるアプリが作られ、Twitterアプリが作られ、そうして「普通に」使えるように時代に乗ってきた。

Linuxでの2ちゃんねる利用の様子 (Momonga Linux5, おちゅ〜しゃ)

あの頃のインターネット

2000年くらいだとまだインターネットといえばチャットが全盛で、そもそも常時接続ではなかった。 フレッツISDNが入って都市部は常時接続が可能になったりしていたが、だいたいはダイアルアップだった。

ISP料金はもう定額制に移ってきていたので、市内通話が定額になるテレホーダイというサービスの時間帯、いわゆる「テレホタイム」になるとみんなが一斉に接続する、というのが一般的だった。

だからだいたい日中はインターネットは閑散としていた。インターネット接続料はトータルではめちゃくちゃ高かったから当然だ。

2005年になるともうほぼADSL、あるいは光回線による常時接続が当たり前になっていて、今の感覚にだいぶ近い。 この時代はその変遷の中にある。

アナログ時代は皆が夜になるとチャットを始める。 それまでの間、パソコンは使う人もいるが、使わない人も多い。

インターネットで親しくなった人とはメールを交換することが多かった。 これは、メールを書くのがオフラインでできるからだ。メールを送る一瞬だけ接続すればそんなに高くなくて済む。 だから一通一通が結構長いメールをやりとりしていた。これは高速化した文通みたいなものだった。

メールクライアントはほとんどがOutlook Expressだったが、ポストペットというアプリも流行していた。 「かわいいマスコットが配達してくれる」というのだが、私はどのあたりが可愛いのか理解に苦しんだ。

ぽすとぺっと (ペットが映ってないけど)

3D仮想空間というのは当時の流行りだったと思う。 決して使いやすくないことから今はほとんど見かけることはないけれど、ポストペット以外にも「さぱり」というチャットクライアントがあったりした。 これも3D空間で人と会いながらチャットするようなものだった。1

さぱり

OSはWindows 98, Windows Me, Windows 2000が多かった。 Windows 95ユーザーは以外と少なかったが、やはり性能的にWindows 95世代だとかなり厳しかったから、という面が大きいだろう。この頃の3年とかいう期間はものすごく大きな差だったのだ。

MacはMac OS 8や9の人たちがちょいちょいいたが、これは大ヒットしたiMacの影響だろう。 高校生でiMacを買ってもらったという人は意外と多くて、それはまるっこいiMacの時代の話なので、フラットになってからは少なく、そのためにMac OS Xは割とマイナーだった。 というよりハッキリ言ってしまえば、Mac OS Xは当初あんまり人気がなかった。

常時接続の増加に伴ってメッセンジャーアプリに移行していくことになる。 それ以前もICQでやりとりしたりしていたが、ICQはメッセージのオフライン配送が可能だ。 対して、一気に流行したMSN Messangerはオフライン配送ができなかったので、常時接続を前提に普及したと言えるだろう。

じゃあそんな中でLinuxやUnixを使っていた人はどうなのか、というと、まず遭遇しないくらいにはレアだった。 そこらへんの名前はLinuxブームのときか、2001年の2ちゃんねるの閉鎖事件のときくらいに知られることとなったわけだけども、それでも知っている人も使ったことがある人もすごく少なかった。

2000年ころには一気にハードウェアもソフトウェアも集約されていき、エクスペリエンスが統一されてくることになる。 それに抗うところもなくはなかった。

私だとだいたい暇さえあれば(なおかつ他のアクティブな趣味をしていなければ)インターネットという感じの生活だったけれど、だいたいチャットが生活の中心にあった。 ICQとかMSN Messangerとかでやりとりしつつ、チャットサイトでチャットを楽しむ、みたいな感じ。 で、夜中人が寝ているような時間にメールを書く。

今ほどなんでもブラウザではないけれども、ブラウザ中心だったのは確か。 IEが覇権を取ったけれど、IEのアプリは本当に使いづらかったから、多くの人は何らかのIEコントロールを使ったブラウザを使っていた。 私はmoon browserを使っていたけれど、LunaScapeが人気が高かったし、あとはkikiとかSleipnirとか。

で、敗北したNetscapeのオープンソース化というのはやっぱり非常にインパクトの大きい話題で、Netscape6が誕生する。 ここで、我々ははじめて「標準規格に準拠する」という概念を知ることになるけれど、Netscape6はバグだらけでまともにレンダリングできなかった。

でも、それまでUIというのは四角いものだったので、丸みを帯びたUIはかっこよかった。

2002年 Netscape6 UIが丸っこい

ここからFirefoxが出るあたりまでは長い戦いになる。 Linuxを使っている、というと随分強いインパクトを与えることができるが、Linuxを便利に使うというところまでの道のりはまぁまぁ遠い。 だが、Windowsが快適だったわけでもないので、どうせ苦労するならと楽しくやっていたのが実情だ。

2008年 インターネット利用の様子 (Momonga Linux 5)

2003年くらいから、チャットに留まる、2ちゃんねるに移住する、去る、の三択みたいな状況になっていっていた。 Twitterが流行するまでの間には、みんな一体どこにいたんだろう?

いずれにせよ、アナログ回線だった頃はわずかな機会を無駄にしないようにみんな必死で会話していた。 インターネットのjoin率は低かったから、知らない人と接することのほうが多かった。 遠方の人でもよくオフ会で会ったりしていたし、今になって思い返すと黒歴史としか思えないようなキャラをみんなが演じていたから、素の人に触れることで「えぇーっ」となるのも定番だった。

実名ではないが、匿名が許されていたわけでもない。 つまり、自分が何者であるかを隠したりすることは好ましくないと考えられていた。

2002年になってフレッツISDNが普及し、2003年にADSLが入ってくるとこうした状況が変化する。 インターネットが「メディア」から、リア友などと連絡をとるための「ツール」に変わっていくのだ。 ただ、公共の場をツールにするために占拠するなどの行為が多発し、摩擦も起こった。

インターネットの「常駐化」によって、メッセンジャーでいつでも連絡できるようになったし、そういうスタイルが一般化した。 今で言うLINEみたいなものだけど、もっと即レス前提の空気ではあった。

検索エンジンの普及、というのも大きい。 検索エンジンはあまり有用ではなかったので、どちらかといえば「リンクサイト」「リンク集」を使って既知のサイトから未知のサイトへ移動していく「ネットサーフィン」が一般的だった。 だが、Googleの登場で情報にダイレクトにアクセスできるようになると、ウェブは「情報発信」という色合いを濃くしていく。同時に、企業活動も活発になっていった。

結局、使われ方によってインターネットのあり方そのものが変質したといっていいだろう。

わかりやすく、使いやすくなるコンピュータ

昔のコンピュータは複雑だった。

インターネットにつなぐためには、モデムというものを使って「電話をかける」必要があった。 そのためには様々なパラメータを設定する必要があり、手順も実に複雑だった。

Unixシステムでモデムを使ってインターネットに接続するには、色々なコマンドと長ったらしい引数を必要とした。 だが、Windows95ではモデムによる接続がサポートされていなかったのだから、それと比べればアドバンテージですらあった。

Windowsは必要な情報を入力すればつないでくれるアプリが登場したし、それ以上にプロバイダーが自分と契約させるために、自分の電話番号にかけさせるようパラメータを固定した接続アプリをそれぞれに出して、バンドルしていた。 まぁ、そんなことが可能だったために、アクセスすると勝手に国際電話やダイヤルQ2をかけさせられるウェブサイトが大量に出現したわけだが。

LinuxでもGNOMEやKDEにダイアルアップ接続用の設定アプリが登場する。 それによってインターネットへの接続のハードルが下がった。

だが、それでもまだ複雑であり、制約がたくさんある。 それがADSLやCATVが普及すると、「LAN」という概念に集約され、ほとんど「ケーブルをつなぐだけ」になった。 接続、切断の概念や、複数マシンを接続するために異なる概念を導入する必要がなくなった。

コンピュータハードウェアも性能が上がり、マネジメントの難しさが解消されていった。 ハードウェアの多様性が減少し、考えるべき要素が減った。結果的に様々な問題を抱えるリスクが減少し、性能面での比較以上に考慮すべきことは大きく減った。

そうした論理的にも集約されていく流れの中にUSBもあった。 大きな様々なデバイスを接続し、巨大な接続口とまともに曲げられない太いケーブルが這い回る時代が終わったことには、隔世の感すらあった。

そうした中でソフトウェア的なエクスペリエンスもよくなっていった。 今定番になっているショートカットキーも、以外と後になって入ったものというのは結構多い。 あるいはタブインターフェイスの実装だったり、そうした「使いやすいデザイン」というのも着実に進歩してきたわけだ。

意外なところではマウスカーソルの動き、というものがある。 この頃は、マウスカーソルの動きには加速度があり、動かしていると動きが大きくなるようになっていた。 マウスカーソルの動き出しのラグが大きいという問題もあり、マウスカーソルをうまく動かすのにはコツが必要だった。 2005年だとまだマウスカーソルの動きにクセがある時期だけれども、Windows XPはクセが解消されているので随分快適になった。 (Linuxでも、この頃にはだいぶクセは落ち着いてはいたし、設定によって好みに合わせることはできたが、Gtk+2系のデスクトップは加速度0でも違和感があった)

また、USBディスクを自動的に認識できるか、という問題もある。 当時はディスクを接続したあと、dmesgなどでカーネルログを確認し、デバイスをマウントする、という手順が必要だった。 デバイスの自動認識の方式はかなり色々と変遷したが、最初の頃はあまり安定しなかった。うまく認識されたりされなかったりである。このあたりは明らかにWindowsのほうが快適であり、大きな難点であった。 2005年にようやく機能的にはちゃんと存在するというくらいの状態であり、現在は各デスクトップごとにユーザー空間でマウントする機能を持つようになっている。

aqua

Mac OS Xが登場したのは2001年。 一般ユーザーからは操作性などを含めて「難しい」「使いづらい」と不評であり、その後除々に人気を増していったのだが、デザインに関しては当時としては著しくスタイリッシュであり、人気を博していた。

このせいか、Mac OS Xのデザインテーマである “aqua” はLinux界隈でも人気となり、aquaを模したデザインのテーマが大量に生まれた。 ぐらいならいいのだが、実はデザインテーマが公式に用意されるものを除けばだいたいaquaという状態になった。 これはFirefoxのテーマなんかでもそういう傾向だった。

主な事件と文化

Mandrakelinux

MandrakelinuxはフランスのMandrakeSoftが開発する「ヨーロッパ人気 No.1」のディストリビューションだった。

日本ではLinux関連の情報も少なく、「なんかそういう人気のあるディストリビューションがあるらしいぞ」「ヨーロッパではRed Hatじゃないらしいぞ」という話はされていたのだが、まぁなにせフランス語だったから入手は難しかった。 なにより、フリーにダウンロードできるものでもなかった。

実際としては「Windowsユーザーに違和感なく使えるように」というコンセプトだったから、玄人臭がするようなものではなかった。

2005年にMandrakeSoftがConectivaを買収して、Mandriva Linuxに名称変更し、割と入手しやすくなって日本人にも使われるようになったものの相当少数派だった。

2007年くらいからゴタゴタして…というか、もともとMandrakeまわりは割とゴタゴタした話が多かったのだけれど、主要なメンバーが抜けて、TexstarはPCLinuxOSを作る。 2010年には主要開発者が抜けてMageiaというフォークを生み出す。PCLinuxOSは安定して人気があるし、Mageiaは完全に人気ディストリビューションなので、結局オープンなほうが強いという感じである。 Mandriva自体はコミュニティベースになって(2015年にMandriva S.A.が倒産したので)、OpenMandrivaLxというディストリビューションとして生き残ってはいるものの、勢いがない上にリソースが足りず、かなり苦しい状況が見える。

東風フォント事件

Linux界隈で「標準のアウトラインフォント」として使われていた東風フォントがトレース疑惑で配布停止になった問題

もちろん、当時フリーフォントとして配布されていたものはあるものの、フォント制作者は代替にしてライセンスなどに詳しくなく、フリーフォント界隈では「二次配布は窃盗と同じ」というような理屈が通用していたこともあり(今もそういう主張をする人は結構いる)、「フォントがない」という事態に陥ってしまう。

これがIPAフォントが騒がれるところにもつながるし、割と大きな出来事であった。 結果的に見れば、この事態を受けてなんとかしようとした多くの人がいたからこそ乗り越えられた危機であった。

Fedora Core

Red Hat Linuxが9で終了し、Fedora Projectに移った。

話は少し複雑で、Red Hat LinuxのオープンなコミュニティであるFedora Linux Projectと合流する形でFedora Projectが発足した。Red Hatがスポンサードするコミュニティであり、従来の開発版であるRed Hat Rawhideとリリース版のRed Hat Linuxの中間となるFedora Coreというディストリビューションをリリースし、開発版はより先進的な開発版であるFedora Rawhideに移った、という形だ。 つまり、両者とも先進=不安定な方向にシフトした。

Red HatはRed Hat Enterprise Linux関連のサポートや資格などで稼ぐモデルであり、デスクトップパッケージであるRed Hat Linuxは利益にならないという判断がなされた、とも言える。

Fedora Projectの成果物は再編され、7からはFedora 7という呼び方に変わっている2

Fedora Coreは開発版のリリース版であり、Red Hat Linuxのように実用を主眼としているわけではないので、「普通のユーザー」が使うことを推奨されるようなものではないのだが、Red Hat Linuxが名前を変えたものであると理解した人が多く、書店にはFedora Coreでサーバーを作る、という恐ろしいものが並んだ(今でもなくはないが)。 この問題は、Fedoraはバグは将来のバージョンで修正されるために現在のバージョンには常にバグがあるかもしれないということと、サポートが13ヶ月と短いことである。 もちろん、サーバーとして使えないわけではないが、「Fedoraでサーバーを立てよう」みたいな書籍を買うレベルの人がやることではない。

ただ、実験的で不安定であることが必ずしも実用的でなかった。 なぜならば、この時期はまだ不完全なLinux(の利用環境)に対して、最新版はLinuxを良くする、使えるようにするという目標を持ってどんどん開発されていたのである。 だから、古いソフトウェアを採用するDebianなどで抱えている機能的な問題が解消されている可能性も高かったし、ある程度「新しいければ新しいほど良い」が通用する土壌でもあった。

このRed HatからFedora Projectへ、という流れは、SuSE LinuxからopenSUSEへ、という形でヨーロッパで人気のディストリビューションにも波及することになる。

Fedora Core 2事件

Fedora Core 2のインストーラーがWindowsとデュアルブートした際にパーティションテーブルを破壊してしまう、というバグが発生した

これによって人々は「Fedora Coreは実験的」ということの意味を早速思い知ることになる。

glib 2.6

glibが2.4から2.6になったときに、変更幅が大きく、単純に再ビルドできない、というような事態に陥った。 また、システム自体がソースからビルドされている場合はglib2.6でビルドされたglib2.6を使ってビルドされたシステムを作るまでがなかなか大変でもあった。

Evolutionと文字化け

Novellが開発し、Gnomeに取り込まれたEvolutionだが、メールをUTF-8でエンコーディングして送る先進的な仕様だった。

別に全く問題ないどころか、適切に近いのだが、日本では日本語のメールへのスペシャルな対応をしていたので、ISO-2022-JP(JIS)しか扱えないメーラーがたくさんいた。 本文のエンコーディングは設定で変えられるのだが、Subjectに関してはUTF-8で固定なのでどうすることもできない。

そのため、Evolutionでメールを送ると相手側で文字化けする、という問題が発生していた。 これは、Evolutionは正しいことをしているにも関わらず、日本でローカライズされた事情に従っていないためにEvolutionが悪者にされる、という事件だった。 この解決には、JISに決め打ちしているメールクライアントを滅ぼす必要があり、相当時間がかかった。

ライブドアブログ事件

Turbolinuxを販売していたライブドアが運営するライブドアブログで、利用者のUAを見てLinuxからの書き込みだと判断するとブロックする、という措置をとっていたことがある。

割と最近までYahooニュースの動画がLinuxで観られなかったこともあるし、狙い撃ちしたLinuxへの冷遇というのは割と存在していた。

メール配送

元々認証機構が何もなかったメール送信だが、それはさすがにまずいのでスパム対策として認証機構が入るようになった。

最初に入ったのはPOP3 before SMTP。 要は、POP3は認証機構があるので、POP3アクセスがなされたら当該IPアドレスからの接続を一定時間受け付けよう、という大変ザルな認証である。

だが、いまいち効果がなかったため、「メールクライアントを示すX-Mailerヘッダを制限する」「Fromヘッダによる差出人アドレスを制限する」「いっそメール送信をリレーしない」などのよくわからない制限がかけられ、「メールは送信サーバーに困る」という事態が出来上がった。

このことから、Windowsでも「自前のMTAで送信してね」みたいなわけわかんない事態が発生したのだが、Linuxの場合MTAが普通にあるため楽勝であった。

…と言いたいところだが、Sendmailはなかなか手ごわいソフトウェアであり、せいぜい「設定しなくてもなんか動いてるからイケる」くらいの話だった。Eximが入って設定や管理が楽になったのだが、実際にはEximよりもPostfixを採用している人のほうが多かった。

今となってはローカルのMTAどころか、サーバーに立てたMTAですらまともにメールを受け取ってもらえないので隔世の感がある。

あのころ

HTMLチャット。2003年ころまでは非常に流行していた。 Mozilla 1.2.1はNN4に近いUIデザイン

当時はインターネットはまだそれなりにマニアックなものだったから、コンピュータに詳しいことは尊敬の対象だった。 ほとんどの人は理解しているというよりも、こんなテクニックがあるんだぜ、という伝聞を覚えているだけであり、例えば、「<font size=7>おおきな文字</font>ってやれば文字が大きくなるんだぜ!」とかそんな話である。

だから、みんな聞きかじり程度には用語に詳しかった。 チャットに入室すればUAが表示されるから、聞いたこともないようなブラウザだと割とみんな飛びついた。 Opera仲間がいればそれだけ話題も盛り上がったし、Firefoxがデビューしたときも、「なに、Firefoxを知らないの?」って感じだった。

だから、UAに「Linux」と表示されることにはインパクトがあった。 「どうせカッコつけてUAいじってるだけなんでしょ?」って言われて、「いやいや、Red Hat Linuxなんだよ」ってドヤるのは気持ちよかったし、会話も弾んだ。半ば、そうやってドヤるために使っていたといっても過言ではない。

インターネットの交流は今よりずっとダイレクトで距離感が近かった。受け止められることのない発信ではないから、日常の中にあるちょっとしたことが大きな話題だった。

当時は私にスキルがなかったから、「Linuxを使っていて便利だった」みたいな話は残念ながらできない。 Alt+F2でアプリ起動するのが楽で早かった、くらいの話はあるけれども、コマンドもロクに打てない私としては、せいぜい「gaimが便利!」くらいの話でしかなかった。 インターネット環境がない人のほうが多かったから、Linuxを使って現実的に何かが困る、ということも特になかったけれど、Linuxがあったからこんなに便利で、ということはあまりなかった。

強いていうならローカルウェブサーバーだろうか。 ウェブサイトを作っているときに、Windows(しかも98)だとローカルでテストすることが当時まぁまぁ難しかったので、ローカルでウェブサーバー立てて実際に動かしながら開発できる、というのは私がプログラミングスキルを伸ばす上で結構重要な要素だったと思う。

それから、Linuxの概念を知ることで、CGIなどで「これなんだろう」と思うようなことがちゃんと理解できるようになったこととか。

ただ、やっぱりワクワクした。現実的に色々選べるわけじゃないけど、新しいものは昨日までの常識を塗り替えてしまうようなもので、あっと驚くような、ワクワクするようなことに溢れていた頃だ。 そんな中でLinuxというのは、みんなが知っている、見慣れたものではなかったし、Windowsでも馴染みのあるアプリなんてほとんどなかったから、アプリひとつとっても聞いたことのない「こんなのあるんだ!」というものだった。

それは、窓の社やVectorでみんなが知らないイケてるフリーウェアを探して試すのを、もっと大胆に大きくしたような体験だった。 情報もないから発見がたくさんできた。ブログには、こんなアプリをみつけた、これはWindowsだとこうなんだ、みたいなくだらないことをたくさん書いたし、そんなことでもみんなに「へぇー」って言ってもらえるような時代だった。

はっきりいって、Windows 95やWindows 98は本格的なコンピュータとは言いがたかった。 まともなユーザーアカウントもないし、とにかくコンピュータとして必要なありとあらゆる機能が欠けていた。 でも、そんなコンピュータでもWWWを開いてチャットして、仲良くなった友だちとメールして、メッセンジャーでおしゃべりするには十分なものだった。 ゲームだってできた。ホームページだって作れた。ワープロソフトでなんか書いて印刷することだってできた。

それが普通の人にとっての「コンピュータ」だった。 だから、Windows 2000になって人々は「大きく変わった」とは思わなかった。

Linuxもまた、そうやって「普通のコンピュータ」として使うことができた。 と同時に、Windows 2000に変わったことで一部の人が「あれっ、こいつ違うぞ」と思うことができたように、その時私達が手軽に触ることのできる一番身近な本物のOSだった。

コンピュータの遊び方が少しだけ広がった。 プログラミングができる。ウェブアプリが動かせる。メール送信サーバーがなくたってメールが送れる。 素朴な、でもLinuxの素性だからこそ可能なことの一旦に唐突に触れることができた。

今実際、このスクリーンショットを出すために、ホストOSでsocatして、QEMUで起動したRed Hat Linux9でスクリーンショットを撮ったあと、cat Screenshot.png > /dev/tcp/10.0.25.2/9999とかやってファイルを持ってきた。3当時だってそういうことはできたわけだけれども、「普通のパソコンユーザー」だった私には到底考えも及ばないようなことだった。でも、Linuxはそれができるものだったのだ。

Linuxを使い続けたのは、「かっこよかったから」というのもあるけれど、安定性の高さが大きかったと思う。 Windows 98は結構頻繁に再起動しないといけないOSで、これが割としんどかった。 その点、Linuxは非常に安定していて長時間使っていても大丈夫だった。あと、ファイル名の自由度とかもある。 ほかにも、当時のGNOMEには「シェルフ」というショートカットをまとめる機能があって、これを使うと大量のショートカットをパネルに収めることができた。私はQuick launch4にいっぱい入れる派だったので、これが結構便利だった。 当初は「がんばって使っている」という気持ちは結構あったけれども、がんばって使ってみてもいいかな、と思うくらいのものでもあった。 なぜなら、楽しかったから。

私はRed Hat Linux 8は使ったことがなくて、Red Hat Linux 7.0の次がRed Hat Linux 9だった。 改めて確認すると私の最初のLinux体験は「こんなにかんたん! Red Hat Linux7」という本で、次はLinux WORLD ベストセレクトに付属していたRed Hat Linux 9だったようだ。 そのあとは、Linux magazine 2004年7月号のFedora Core25、Linux magazine THE DVD 2005のFedora Core 3、そしてネットから落としてきたMomonga Linux 2と続く。

Red Hat Linux 7のときは無理やり使っていた感じだったけれど、Red Hat Linux 9のときには明確に使う理由があった。 それは、「字が綺麗」である。 OpenOfficeも入って使うのに困らなくなった、というのも大きいけれど、色々アプリがあるということを見つけたりとか、あるいはアプリがずいずい増えていったりとか、そういうのもあって「Linuxって結構使いやすいな」という感覚があった。

でも実際、Windows XPが出てからちょっとWindowsに戻っていたのだから、絶対的なアドバンテージを感じていたわけではなかったと思う。結局、PCを使っているときは開発してる時間が長かったからLinux中心で使っていたけれども。

本格的に「Linuxがいい!」と思ったのはFedora Core 2になってからで、KDE3やGNOME2の見た目がよくなり、カスタマイズ性も上がったことが大きい。それぞれのデスクトップ環境が進化して明確にメリットを感じられるようになり、またデスクトップに適用できるテーマも洗練されてスタイリッシュになったことで、「Windowsでは選べないものが選べる」というメリットが分かりやすくなったのだ。 まぁ、この体験は個人的な技量向上によるところも大きいのだが、Firefoxも入ったし、さらにAnthyになって入力効率がよくなった(当時のWindowsよりもよかった)。こうしたことで普通に使えるようになっていったし、Linuxであることのデメリットがなくなり、メリットが拡大していった。

KDE3をモノクロームデザインにしてみたもの。当時実際に使っていたテーマ

ただ、一方で激しい開発の中にあるソフトウェアが多く、安定性に乏しかった。 そのほかにも、フォント管理がフォントサーバー(XFS-XFT)から純粋にFreeTypeライブラリを使う形に変わったり、initが変わったり、大きな要素が大きく変わりもしたし、システムの構成は発展途上だった。 Systemdに関しては批判も多いが、総合的に見れば「より良い形」を見出して完成に近づいていると言ってよいのではないだろうか。

コンピュータそのものがひと月ごとに大きく変わるような状況だったが、Linuxのシステム構成も日々変わっていた。 新しいテクノロジーや、廃止になったテクノロジーを追いかけるのも一苦労であり、初心者としては学習していることが学習している途中ですら変わってしまうリスクと向き合うことになった。まだ理解もしていないのに新しいテクノロジーが従来と何が違うのかという話を避けて通れなかったりしてなかなか厳しい状況ではあった。 ただ間違いなく、新しいものは理屈に普遍性があり、理解しやすく便利で使いやすかった。

そうした「新しいものへの集約」のひとつにあったUTF-8だが、Unicodeの登場はとにかく「日本語を必要とするのでアプリが限られる」という状態を解消した。 日本語の事情は世界から見て受け入れられないようなものが多かったので、日本語ローカルな環境を作ってきたことが世界との壁になっていたのだ。それが解消されていくことで一気に世界が広がった。

激動の中にあったのは日本語入力も挙げられる。IIIMFはかなり期待を集めたが、実際はFedora Core2で採用されたが、Fedora Core 5ではSCIMになってしまい、Fedora以外ではほとんど採用されなかったことから、IIIMFにかけてきて残念な思いをした人は結構いた。 ATOKやWnnなど商用の日本語変換機構がIIIMFを使っていたことも、それらが利用困難になってしまう原因のひとつにもなった。

印象深いのはAnthy/uimでかな入力ができるようになったことである。 この大きな点は、単純にかな入力ができるということだけでなく、日本語入力は対応するASCIIシンボルに基づいていた、ということが大きい。実はASCIIシンボル的には日本語キーボードは右上のキーと右下のキーが共にバックスラッシュで同じなのだが、かなとしては「ー」と「ろ」で異なる。 Anthy/uimはこの問題を解消できていなかったが、そういう問題に直面した、というのが大きかった。「日本の常識」と「世界の常識」が交差することになったからだ(uimとAnthyだとまだ日本ローカルだったが、この問題がSCIMに持ち込まれて大きく変わった)。

それから

KDE4は従来とは大きく異なる優れた外観を示した。 外観のスタイリッシュさやカスタマイズ性はこれ以降向上していないことから、恐らく歴史上最もスタイリッシュなデスクトップ環境だろう。

KDE4/Compiz Fusion (Momonga Linux 5, 2008)
KDE4 (Sabayon Linux, 2014)
KDE4 (openSUSE 13.1, 2014)

非常に複雑な「複数種類のデスクトップ」「アクティビティ」「デスクトップに保存されるウィジット」という方式を持っていたのだが、あまり受け入れられなかったようだ。

Linuxデスクトップはこれ以降、UI面ではタッチデバイス指向になったものを除けば、やや伝統的な方向に振り戻すことになる。 別の言い方をすれば、それだけWindowsのUI構造が傑作だったのであり、Windows 7はその中でも最高のものだったということが伺える。 KDE4のメニュー機能はWindows 7よりも優れたものとして継承されているが、おおよそWindows 7のようなUI体系が最も支持されているようだ。

2000年代前半まではおおよそ一方的によくなってきたといっていい流れだったが、ある程度のエクスペリエンスが確保されてから、特に2010年代に入ってからは諍いを生み出してしまった。 例えばタッチUIとの戦いだ。

ある者はスマートフォンのほうが人気があるのだから、スマートフォンのようなUIにすべきだと主張した。 またある者はパソコンにはパソコンの使いやすい形があるのだと主張した。 イデオロギーの対立であり、正解はない。

2000年代後半から2010年代前半には現在に至る道である。

ディスプレイが4:3から16:9になった。これで画面が大幅に広くなり、ウィンドウはタイリングして使うのが普通になってきた。

日本語入力はMozcが入ったのが大きい。貧弱なLinuxの日本語入力を支えたのはATOKだったが、Linux向けのATOKがなくなってAnthyの開発も停滞し、日本語入力を憂いる状態になって登場したのがMozcであり、Googleを好ましく思わない人でも新たに登場したlibkkcを使おうという気にさせないくらい出来がよかった。 これは、感動するようなものだったわけではない。改善されたMS-IMEやことえりの変換能力も高いし、Google日本語入力は当然ながらMozcよりも優れている。そして、ATOKという変換体験もあった。だが、実際にLinuxで選べる中では明らかにすぐれており、これがなければLinuxを「選ばない理由」に日本語変換が入ってしまうのだ。

スタンダードなウェブブラウザさえあればだいたいのことはできる、という時代になっていき、さらにウェブテクノロジーを用いたアプリケーションが台頭したためにアプリケーションはクロスプラットフォーム化し、Linuxはその中心に立つようになる。 どんどん「Linuxだから」という要素が解消されていく時期となったのだ。

これは、「どちらが優れているかは物事によるが、WindowsにできてLinuxにできないことはそれなりにある」という状態が解消され、Windowsでなければできないようなこともなくはないものの、そのようなことはとても少なく、Linuxの利点が一方的にメリットとなるという状態になっていったということだ。

だが、本当に安定したのはここ2, 3年のことであり、その間にはLinux環境はよくなったり、悪くなったり、対立したりを繰り返しながら形が定まってきた。