Chienomi

完璧を求める人のアンサーソング

雑感::think

この記事はサイボウズ・Necoプロジェクトのsatさんが公開した記事に対するアンサーソングである。

その記事はやさしい記事だが、私はそれでは戦えない。 そして、この記事は戦いたい人のための記事である。

やさしい記事が欲しい人は、この記事を読むべきではないかもしれない。

何故に何を求める

私のコンピュータスキルに関しては少し屈折した歴史がある。

もともと2歳からプログラミングをしていた私だが、大したスキルを獲得しないまま成長した。 大きな理由として、所有するコンピュータが変わらなかった、ということが大きいだろう。中学生のときにごく一時期、Windows 3.1のコンピュータを所有したこともあったが、結局なんだかんだまともに動かず、私の手元にも残らなかった。 だから、私が好きに使えるコンピュータとしてJXの次に手に入れたのは2000年、高校2年生のときのVAIO PCV-MX2…Windows 98SEマシンだった。

当時はコンピュータに詳しい人も少なかったし、プログラミングできて、しかもレガシィな言語(例えばFORTRANとか)も知っている、DOSも使えるとなると必然的に「詳しい人」扱いを受ける。 それで得意になっていた面もあるし、同時にいつも「実際にはわからないことだらけ」という現実に焦ってもいた。

JavaScriptとPerlを習得したのは、興味と実用の面も大きいが、「現実には知らない」というプレッシャーとの戦いであったという面も否定はできない。

その後、Unix/Linuxをちゃんと学ぶなどして「仕切り直して」再出発した。 この時点では当然ながら、「学べる限り」のレベルの話であり、研究レベルには達していなかった。 「デキる人」にはなれるかもしれないが、超人には到底なれない。

完璧超人どころか、全知全能になりたい

私は有名人でもないし、世界指折りの技術者というわけでもない、という状況で、私にとってもやはりとんでもない、敬服すべき人というのは何人かいた。 ちなみに、最初にTwitterでフォローした著名な技術者はMatzであり、全体で19番目のフォローであった。

私はMatzの著書も持っているし、そこから多くを学んでもいる。 そして、Twitterを観測している中で、とても私には理解できないような高度な話をしている番目に出くわすことも多い。

私は、私が理解できるかとか、私に近いかとかいう基準ではなく、私にとって未知の話をする人を積極的にフォローした。1

基本的には「すごい人をたくさんフォローする」に近いアクションである。 同時に、初歩的なことをわかったように話す人や断定的に話す人はフォローしない。もちろん、そういうのを見るのは不快だからというのもあるが、それ以上に 私が優越感を感じるような状況を発生しないようにしている のである。

これは、「私に見える世界をコントロールする」という話である。

私は無限に努力する人間だが、その程度に関して怠けないということを意味しない。 どうしても、自分よりできない人ばかりを見ていれば手温くもなるし、自分がすごい人物であるかのような錯覚も抱く。果たしてあるいは、私とて誰かに大して優越をひけらかすような人物になるかもしれない。

だからこそ、自分よりすごい人の言葉ばかりで埋め尽くしていたいのだ。 そこに表れるものは私が学ぶべきものばかりであり、極めて有意義だ。それを理解しようとすることは、その領域に少しでも近づき、その世界の中で最底辺にいる自分が這い上がることでもある。それがモチベーションになるのだ。

よって

  1. すごい人をたくさんフォローする
  2. すごい人達がすごいこと言ったりやったりする
  3. それに比べて自分は大したことできないと自信喪失する

という状況を 意図的に作り出しているのである

だが、

  1. 何もしなくなる

ということはない。

だって、元より私は物心つく前から、この世界で最も価値がなくて、最も生きることが恥ずかしい人間なのだと刷り込まれてきたのである。 他の人と比べて劣っている、という事実は決して私を傷つけない。むしろ、そのように刷り込まれたからそれを事実だと確認することで慰めになるくらいだ。

だから何をすべきか? という問いに対する答は明確だ。

貪欲に努力することである。

努力は苦痛ではない。だから、それによって追い込まれたり、無気力になったりはしない。 そして、私の眼前に流れてくる全てを理解し、それ以上を求めるということは、ありとあらゆるすごい人を超越し、ありとあらゆることを知悉した者になろうとしているということだ。

そんな完璧超人はそういないということは理解している。

ただ、言うならば本当にすごい人は守備範囲が割と広い。 知性において秀でているから、別にコンピュータのことに限らず教養に富み、幅広い分野において知見を持っているケースが多い。

つまり、総合的な知性の開花というのは、幅広く発揮されるものであり、知無知によるところではなく、それを補う知性を備え多くを知ることができる、と考える。

そして、追い求めるのは「全ての人類を集結してもなお届かない存在」になることであり、結局のところ私はいつだって全知全能を求めている。

私は私だけ、という部分は救いにはなる

とはいえ、敗北に無傷、ということではない。

特にMimir Yokohamaを初めたころは未経験のことばかりであったし、試みる中でも思った以上に悲惨な結果になりもした。 「惨敗続きで成功体験がまるでない」という状況は、いくらなんでも心を抉るものがある。

そうした中で私が負けない要素を持っている、というところは、私が戦う上で大きな支えになった。

コンピュータの技術に関しては誰にも負けない、というほどのものはない。 例えば正規表現なんかは得意だったりするが、私よりもすごい正規表現を書ける人はいくらでもいる。 どの要素をとっても「世界中誰にも負けない」というのは、まぁ難しい。

だが、私がずっと続けてきた心理と行動に関する研究に関しては、その観点による研究で先行されておらず、なおかつ結果においても無二のものになっているために「私が世界一である」ということは疑いようがない。 そして、この領域は相当広く適用できるので、かなり幅広く優位を保てる。

また、知ることやスキルに関しては、それぞれが得意なもの、知っているものがあり、そうでないものに対してはできないこともあればまるで知らないことも普通にあるということは、かなり自然に受け入れられる。

計算機科学者にして音楽家、という人は割といて、両方プロという人もまぁいなくはないのだが、「プロライダーであった」と組み合わせると私が知る限りはいない。 また、「声優である」というのもかぶらない属性であり、私が持っている属性が文化圏をまたいでいるものが多いため、どんな人が相手でも「その人が知らない知識」を示すことができる。 念の為に言っておくが、実際としてはこれはそのように発揮されるのではなく、「多くの人と共通の話題を持ったり、話を合わせることができる」という使い方をするのが普通だ。

私よりすごい人でも、「劇伴曲を大量に作るコツ」は知らないかもしれない。「生配信する女の子の文化がどのように変遷したか」は知らないかもしれない。「プロダクションレーサーで直線性能の劣るときに巻き返す技」は知らないかもしれない。「声の出し方でどんなふうに印象を変えることができるか」は知らないかもしれない。

そういうものだと私は自然に受け入れられる。

だから、私は誰かを尊敬したりしない。 私は誰もを認めている。誰もが、私が知らないことを知っている。誰もが、私より優れた能力を持っている。誰もが、経緯を払うべき対象である。 だが、誰も私が崇拝すべき全てを兼ね備えてはいない。

だから、マウントをとったりはしない。 相手よりも優位な点を持ち出して相手を圧迫することは、誰が相手でもできる。そんなのは全く無意味だ。

そして、私は誰かのファンになったりはしない。

どれほどすごい人でも、私が挑むことをやめない限り、私が超越しようとするライバルなのだから。

それが辛いとは限らないのだから

勘違いしないで欲しい。 私はsatさんの言っていることが間違いだとは全く思っていないし、satさんの記事を批判する意図は微塵もない。 そもそも、satさんは私からすれば比べようがないほどにすごい人であり、そんな人の言っているこの内容を否定する余地もないし、むしろ、satさんがこういうことを言った意義は大きいと思っている。 そうではなくて、それを肯定した上で、それに当てはまらない人にとってはその言葉が辛くもあるという話なのだ。

少なくとも私にとっては、とんでもないすごい人ばかりを見続けることも、それに焦らされながら完璧超人を目指すことも、どっちも辛いことではなく、むしろ自然なことですらある。

もちろん、それがプレッシャーである、それが苦痛であるというならば、現実をちゃんと見るべきだ。 無限に上を見続けることをやめて、自分が持っている慰めと共にあればいい。 それが間違いでないことは、そんな超人のひとりであるsatさんがこんなエントリーを書くことからも明らかだろう。

しかし、上には上がいるという事実が、嬉しくてたまらない人だっているのだ。

私は、私が一番でないことがとても嬉しい。 私が一番になって、全知全能に至ったとき、それは終焉なのではないかと考えることのほうが怖い。

そう、当たり前のように努力しつづけることはできない、上ばかり見ていたら潰れる、みたいな言説が真理として流通することは、 暗に私のように上だけを見て努力しつづけることが自分を自分たらしめる人間への弾圧、もしくは差別たりえる。 だから、私は声をあげたい。 それは真理ではない と。

多くの人にとってあてはまる、その言葉が優しい言葉であることは疑いようがない。 だが、そうでない人を、そんな人いるはずがないと否定はしないで欲しいものだ。

どれほど少数かはわからないが、確かにこうして、すごい人を見続けることが、ありもしない完璧を追い求めることが生きるために必要な人もいるのだ。 それは、すごい人だけを見て、上だけを追い求めて生きていられない人と同じように、だ。

私は昔から、完璧を求めるのは間違いだ、みたいな言説が大嫌いだった。 完璧なんて存在しないのだと言われるのも大嫌いだった。 そこにいずれ到達する、そのためにほんの僅かでもそれに近づけようとすることこそが、私の全てだったのだから。

そして、あなたがもしも、そうして追い求めることをやめるべきだと言われることこそが辛いのならば

私が肯定しよう。

あなたにとってそれが自然ならば、それが正しいのだと。