インターネットは既に死んでいる
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私はインターネットは1992年(商用インターネット開始より以前)からやっている。自宅インターネットは2000年からで、それ以降は本格的にやってきた。また、単に部分的に使うというよりも、文化・人事的側面に強い関心を持ち、それに関わってきた。
しばらく触れない間もあったが、それでもネットがどう移り変わってきたのか、どういう文化が形成されていたかということは知っている。そこで、現状について定点観測的見地から述べたい。主張が入っているし、多分に主観的な批判を含むことをご了承頂きたい。
まず重要になるのは、インターネットとはそもそも何か、ということだ。軍事目的であり、今も米軍の支配下にある、という陰謀説的神話を持ち出したがる人は多く、この都市伝説は未だに広く信じられているが、これは事実ではない。そもそも出発点からして、軍事目的とは言えなかった。きっかけはスプートニクであり、ソ連に対抗するためであったが、政治目的と軍事目的と科学者と科学好きが混沌を繰り広げた結果、the Internetプロジェクトは早々にARPAのすみっこにあるだけの「居候」へと追いやられている。結局、研究をはじめるためのきっかけと環境整備を国が(政治または軍事を目的として)やった、というだけのことになった。
origin達の考える「インターネット」はまとめると次のようなものだ。
- 自由
- より民主的
- 対等
- 政治・国家に対して独立
だからインターネットは非常にUNIX的であり、またHacker的なものだ。もともと、Origin達はhacerであり、さらにthe Internetが発展する過程では多くのUNIXサイトがつながっていくことでネットワークが形成されてきた。つまり、インターネット文化の根底はUNIX文化でありhacker文化だと言って差し支えない。
インターネットの中で重要なのは何か?といえば、結局のところこれらがひとつのことを指していることからも分かるだろう。個人が主体性を持ち、すべてが対等である自由だ。何かを決定する「偉い人」などなく、マイノリティが差別されることもない、そういう世界の構築だった。事実、インターネットの規格であるRFC(近年はRFCが新しいインターネット技術の標準となる例は聞かないが)は誰でも投稿はできるし、合意が形成されれば採用される。NWGは、寝ることも忘れてしまう科学者たちが、肩書やしがらみに関係なく、自分の好きなことを大いに語り、議論をかわし、そして合意が得られたものは形になる、というものだった。
もともとインターネットは「一般のもの」ではない。アメリカで商用インターネットが始まったのは1992年、日本では1993年だ。この時にようやく「金を払えばインターネットに接続できる」時代がやってきた。それまでは大学、研究者、インフラを構成しているサイトによって成り立っていた。ちなみに、大学ではインターネットよりもUSENETが先行していた。今や公共ネットワーク=インターネットだが、もとよりそうだったわけではなく、もっと色々あった。しかしいずれにせよ、当時コンピュータネットワーキングをやっているというのは、技術者でもなければ好き者(エッジユーザー)に決まっていたので、その文化はかなりの共通性が見られたのは言うまでもない。
つまり、Real Worldにおける地位や立場、あるいは権力や国家といった上下や強制とは無縁の、独立した民主的な世界(ここで「民主的」というあたりがアメリカ的だと思う。ただし、実際は共和主義に近い)が、地理とは別の世界を構築することで実現できる、そんなひとつのユートピアだった。科学者的な夢想でもある。
だが、近年は極めて政治や司法の介入、制御をしたがる。根本的に地理で区切られるReal Worldとは構造が違うにもかかわらず、同じことを無理矢理にあてはめようとしている。それだけでもインターネットは死んだといえるのだが、それだけでなく人々が現実における立場や地位や権力を振りかざしたがるようになり、ネットの独立性を尊重しなくなったことによっても死んでいる。
the Internetは今や全くおもしろくない。かつての居心地の良い、侵害されない空間とは異なる。Real Worldにおける侵害、迫害がそのまま持ち込まれ、例えば貧乏で地位もないという人が対等な条件で勝負できる環境であってインターネットは、既にそのReal Worldにおけるディスアドバンテージを継承することを強要するものとなっている。
私が「インターネットの様子がおかしい」と言い出したのは2002年だが、やはり急速に死に向かっていたことを確かめざるを得ない。
そうしたこととは別に感じるのが3点
- よそよそしくなった
- 民度が下がった
- リテラシーが下がった
最後のリテラシーが下がった、ということについては、コモディティ化と同一の現象であると考えていいだろう。分からないから調べる、分からないから考えるでなく、わかろうとも思わないし、自分の都合のいいように理解し、それと異なるものは排除する、という傾向はコモディティ化にともなって浅識なカジュアル層が増えることによって避けられないことだ。the Internetやその文化について知らないという問題よりも、そもそも頭を使わないという問題があるが(例えば、インターネットが公共の場である、ということを一切無視し、自分の知り合いでない人に見られることに対してキレたりする、などだ)、それは必ずしもコモディティ化が理由ではない。だが、敷居が下がって、思考を持たない人で入ってくれるようになってしまったというのはあるだろう。人々が「考えなくなった」というのはインターネットとは別の次元で感じるが。
しかし、前2つは理解しがたい。1つ目について、「事件が多いから」などと言いたがる人は多そうだが、それはあまり関係ない。チャットやSNSでも「暇」「暇つぶし」という言葉ばかり並び、会話することに対して極めて消極的だ。以前は、インターネット上では多くの人々が会話に対して貪欲だった。ビジュアルがない分、相手の人間性に食い込もうとするのが普通だったし、人間性から入る分、パソ婚の持続性は高かった。だが、現在は極めて淡白であり、会話する意思自体が希薄だ。「事件があるからインターネットをコニュニケーションツールとして使っているにも関わらずコミュニケーションを求めない」というのは理由になっていないので成立しない。例えば、Twitterは一方的な発信であり、内容もspam率(内容のない発言)が高い。「Twitterに慣れたのが原因だ」という言い方もできる事象だが、実際はそのような精神性に対してTwitterの希薄さ、一方的である部分というのがマッチしたから流行ったということではないかと思う。Twitterのコミュニケーションはチャットと比べ著しく密度が低い。ちなみに、SNSはコミュニティ系のものほとんどマイルール的儀礼の押し付け合いしかみられない。これは、Mixiの当初からあったことなので、もはやSNSの宿命なのかもしれないが。
もちろん、ひとつの見方として、Mixiが流行りだして世の若いOLさんもカフェでおしゃれなランチを食べながらMixiをするのがオシャレ、というようなよくわからない風潮になり、そそもインターネットが何でどう使うのかという意識がないまま使い出した(そういう人はチャット全盛よりもあとの時代に入ってきた人なので、意識がないまま使っていたとしても、それは発信ではなく一方的に受け取るだけだったろう)ということも問題なのかもしれない。インターネットでコミュニケーションをとる意思があるわけではないのだが、皆やっているからという理由でコミュニケーションツールを使うために、実のあるコミュニケーションにならない、というわけだ。
だが、これは答えをくれない憶測だ。なぜならば、LINEは多くの場合ある程度の目的意識を持って使われるのだが、LINEのログで出ているものをみても、多くの場合希薄だ。もちろん、Twitterなどのように「ほとんどの場合内容がない」ということはないし、現在のチャットのように「たいてい会話も成立していない」ということもないのだが、それでもかなり双方向性が乏しいと感じる。以前のチャットならばもっとがっつくようにコミュニケーションを求めていた。結局のところ、人々は積極的かつ濃密なコミュニケーションを求めなくなった、という精神性に答えを求めざるをえない。
民度が下がった、ということについては、以前はインターネットで罵詈雑言を並べ立てるようなことはなかったし、差別的な発言というのもあまり見なかった。もともとキャラクタベースのコミュニケーションで、語られることの何が真実か検証することはまずできないという中だったので、差別のしようがなく、そのためにUSENETであれコンピュータネットワークコミュニケーションに慣れると差別しなくなる、というのがあったため差別意識の低下という現象が見られたというのはあるのだが、ともかく(対等であるために馴れ馴れしいというのは別として)基本的には礼儀正しかった。けなす言葉もまず見なかったし、そのようなことをするにしても、嫌味を言うなど遠回しな方法が使われることが多かった。2ちゃんねるはかなり異質で例外的な存在だった。だが、現在はYouTubeのコメント欄にせよ、Twitterにせよ、とにかく差別的・排除的な罵詈雑言が並ぶ。自分こそ絶対善で、異物は排除されるべしという発言があまりにも多いし、死ね、一生刑務所に閉じ込めておけ、といった人のことをまるで考えない排除の言葉が並ぶ。そのための威力行使も度々みられるようになったし、排除する、叩く口実がある相手を見つけると嬉々として人格や人権を否定して大勢で騒ぎ立てるのが当たり前になっている。複数のケースにおいて騒いでいる人が同一という可能性は多いにあるが、それでも一部の少数の人だけとは考えられないだろう。今はそれほど対象となるものは少なくない。かつては人格攻撃は最も恥ずべき行為として指弾されていたのだが、今はたしなめる言葉もまず聞かれない。
これに関しても、例えば2ちゃんねるがコモディティ化したことそのような文化にネチズンがなれ、そのような生態を持ったのだ…と解説することはできるが、これもやはりそうではないだろう。なぜなら、ネットだけでの現象でもないからだ。やはり、これも精神性に対して答えを求めざるをえない。
そして不思議なのは、変化の過程においても度々言及してきた通り、「同じ空間における定点観測」のみならず「同じ人物に対する観測」においてもその傾向が顕著に見られる、ということだ。その場合、通常は何かに染まったとかんがえるべきで、それが広く見られる以上はネット空間のような(あるいはもう少し限定して「Twitterの普及」のような)普及しているツール、環境の変化である、とかんがえるべきだが、それでは卵が先か鶏が先かという問題になってしまう。私がわからないものとしてはTVがあるが(私はTVを持っていない)、たとえTVの業界や関係者がそうした傾向を持ったのだとしても、それは人がやることなのであり、なぜその人たちがそのように染まったか?という点を問題にすればやはり同様である。
「なぜ」という部分は推測はできるが確定はできないのだが、ともかく随分と息苦しく殺伐とした世の中になったものだと思う。かつては例えReal Worldが腐っても、インターネットには私達が作る理想郷(未完成)があり、そしてそれはReal Worldを変える力を持っていたが、今やすっかりReal Worldに侵略され、滅ぼされ、占領されてしまった。
私達が知るインターネットは既にない。今インターネットと呼ばれているものは、Real Worldで地位や権利をもった人々が侵略し、占領した世界だ。
ある場所を見ると、かつてそこにいた人々はいなくなっている。彼らがどこに行ったのかはわからない。だが、そこでのコミュニケーションが嫌になって離れたということは想像に難くない。今はインターネットなしでは生活できないはずだが、コミュニケーションは避けているということだろうか。
心ある人々はどこへ行ったのだろう。