文章を書くということ、掲載するということ
ウェブサイト
- TOP
- Old Archives
- 文章を書くということ、掲載するということ
Chienomiにおける閲覧の分析 (8月以降 約2ヶ月半)
- Let’s encryptとSSL/TLSに関する誤謬 (3506)
- Linuxのメモリの本当の必要量を考える(メモ) (1195)
- 某コンテストの投票方式の問題点 (1005)
- Discordを使ってみた (1002)
- Fu-sen.さんについて (978)
話題になった記事がふたつ、検索にひっかかることが多いらしい記事がみっつという構成だ。
8月以降アクセス数は従来の1/3程度まで低下し、daily PVは1500から6000程度で推移しているChienomiだが、古い記事から新しい記事まで幅広く読まれている。
8月以降に限定されていて、かつユーザーベース(同一閲覧者は除外)であるため、PVと比べると随分少ない。 だが、2014年から記事はあるが、最も少ない記事でも8月以降に7人に読まれており幅広い。定着していることが読み取れる。
なんらかのひっかかりのあるワードのあるものが上位に来やすく、「検索上位は強い」というのをとても感じる。 一方、Twitterで注目が高かった記事は一時的には伸びるのだが、継続的に伸びることは少ないようだ。
Mimir Yokohamaにおける閲覧の分析 (8月以降 約2ヶ月半)
- お役立ち記事/プログラミング言語 比較鳥瞰図 (1139)
- お役立ち記事/USBの説明とType-Cとの付き合い方 (835)
- お役立ち記事/LINEよりもっといいアプリを考えてみませんか (773)
- 教材/Linuxのフォント (616)
- 教材/Linuxのサウンドとビデオ (424)
サイト開設は2017年1月だが、本稼働は2017年12月と新しいMimir Yokohamaのサイト。 Chienomiと同じカウント方法だが、驚くべき伸びである。 ただし、まんべんなくアクセスされているChienomiと違い、極端にアクセス数の少ないページも存在している(最も少ないのはサイトリニューアルの告知で8人、告知以外だと「女子大生、パソコンをはじめました」の#9で10人)。
こちらも全体的に検索にひっかかりやすい、悩める内容が上位に来ている。 現状Mimir Yokohamaが検索上位にくることはないはずなので、ちょっと驚きもある。
Mimir Yokohamaが上位にこないのは、6月頃までほとんどアクセスがなかったことと、「WordPressでないこと」が大きい。 どうもGoogleの場合、プラットフォームが未知のものであり、即座に評価を挙げることは避けるようである。 ただし、そもそもパフォーマンススコアは標準的なWordPress構成よりもだいぶ高いこともあり、検索順位は最近は随分上がっている。 実績を重ねればWordPressよりも伸びるかもしれない。
「読まれる」ということについて
だいたいこういうのはただの数字だと思われてしまうため、「100万PV」とか「10万部」とかいう言葉に慣らされて普通「読まれる」ことについてリアリティを持っては受け止められない。
だが、考えてみてほしい。まず、あなたが何かを書いたとする。書く内容は自由だ。 そして、これを1000人の人が読む。 どういうことかわかるだろうか?
1000人というと、一般的には学校の全校生徒よりも、会社の全社員よりも多い。 そして、「読ませる」ではない。単に「見ようと思えば目につく場所に置いておく」だけで、それぞれの人が自分の意思でそれを読んだのである。1000人以上の人がだ。
一度書いたものが1000人以上に読まれるというのは恐ろしいとすら思えるほどすごいことである。 (ちなみに、Chienomiで最も読まれているページはなんと8000人以上に読まれている。すさまじいことだ…)
これは割と想像を絶する。
少し例をあげよう。
以前のウェブサイトであるAki Littlestart Bloomは2年のサイト期間中総PVが600に満たなかった。 (動的コンテンツを除く)。最も読まれたページでも80回くらいしか読まれていない。
また、私が同人小説で最も売った部数は150部である。 実はこれでも自慢ととられる可能性の高い数字である。二次創作のエロコミックスだと50部というのはそこまで高いハードルではないのだが、オリジナルで一般向けの小説で50部を出すのは不可能に近いくらいの数字で、実のところ私も初出稿では2部(!)しか売れなかった。 100時間は軽くかけて書いたような小説が2人にしか読まれなかった。1 だが、それでも「私が好きで書いたものに関心をもって読んでくれた」ということは結構偉大なことなのだ。 すごく難しいことでもある。
今は私が懸命に書けば多くの人が読んでくれている。 検索にひっかかる知識系の閲覧数が多いということは、私が書いたことによって救われた人もいるだろう。 それは多い少ないとかではなく、当たり前ではない、極めて得難いことなのだ。
難しいモチベーション
さすがに1000人にも読まれれば苦労した甲斐もあるというものだが、実際にはいつもそうであるわけではない。 アクセス数の多いChienomiですら、読まれない記事は数十回読まれるに過ぎない。 また、私の書くものに対しては伝統的にリアクションが少ないので、PV以外に実感を得るのは困難である。
Chienomiの記事は短いものだと15分くらい、長いものだと4時間程度、本当に長いものだと30時間程度かけて書いている。 睡眠時間を削ることもあるし、やりたいこと、やらなければいけないことを削って優先したりすることもある。
今は私が書くことでなんらかの収益を得ているわけではない。 寄稿によって収益を得たのですら2005年が最後、自身のウェブ記事で収益を得たことはそもそもない。 また、間接にも収益を得ていない。
つまり、私が書くことは多くの犠牲を払いつつ、「きっと誰かの役に立っているのだ」と信じながら書くよりほかにないのだ。 それを証すものはPVという「読まれた数」以外にはない。 これは犠牲の大きさを考えるとなかなかしんどい。恐らく内容の良し悪しにかかわらず「書き続けられる人の少なさ」はここにあるだろうと思う。 利益も実感もないのだ。Chienomiは比較的初期から読まれたが、Mimir Yokohamaは半年ほどほとんど読まない状態が続いたし、それ以前のサイトに関してはついぞ読まれなかった。
そういう中で書き続けるというのは本当に難しい。どうしたって書くということは生活を犠牲にすることになる。 そこまでして書こう、書きたいと思える気持ちを記事するのはとても難しいのだ。
実際のところ、私はメールでも数百kBに及ぶテキストを書くことがあるので、必ずしも読まれる人数を重視しているわけでもない。 それが未来に意味を持つなら、と思うほうであり、ひとりだけのために長文を書くのもそれほど苦ではなかったりするし、一方でさすがにそうやって求めに応じて資料を作ったが結局読まれなかったようなときにはショックは大きい。
私にとって書くことは自己満足ではない。それは確かだ。 誰かにとって意味を持たない文章を書き続けることには、私は意味を見いだせない。2
それでも書き続ける
もちろん、犠牲を多く払う以上は優先順位があり、常にバリバリ公開していけるわけではない。 多くの人が待望しているなら無理もするが、それでも健康を害してすら書くことも少なくないので、限度がある。
それでも、それが誰かにとって意味を持つ限り、私は筆を折ることはないだろうし、例え時間がかかっても書き続けていくだろう。 Cheinomiに限らないけれども、公開ペースが落ちても投げ出したとは思わずに待ってもらえると嬉しい。
現在でも、Chienomi向けにもう2ヶ月になろうというほどに書き続けているものもある。 これは、慎重に言葉をよく考えるべきものなので、推敲にとても時間がかかっている。 言葉足らずはないか、いい忘れはないかと考えているとなかなか終わらない。
私は書き続ける。 誰かのために。 誰かにとって意味あるものを残していくために。