Chienomi

R.I.P. Twitter

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RIP

Twitterはどこへ行くのだろう。

かつてTwitterは自由で活気のあふれる場であったらしい。 それを支えたのがサードパーティクライアントだった。Twitter自体は非常にシンプルでさしたる機能もなかった。 それに対して様々な開発者が「こうだったら便利だよね」という機能を実現すべく様々なアプリを開発した。

だが、ある時期からTwitterはサードパーティクライアントに対して厳しい制約を課し、公式と同程度の機能を実現できないようにしてきた。 その制限を理由に積極的に「APIキーとアカウントの凍結」をちらつかせて迫るようになり、サードパーティクライアントを締め出した。 その後、Twitterは「サードパーティクライアントとの和解」を掲げ「帰ってきてほしい」と呼びかけたものの、一方でアプリ開発者のアカウントを凍結するなどの措置を繰り返した。

そして今、従来のAPIを廃止し、新APIは現実的でない制限を課すことでサードパーティクライアントの完全な締め出しを行った。

Twitterはなにがしたいのだろう。

Twitterがおかしくなった頃、タイムラインの並び替え、「いいね」したツイートの拡散、ブロックを無視した表示、機械的なアカウント凍結、事実上の電話番号の強制(新しく登録したアカウントはただちに凍結され、電話番号を登録しないと解除されない)などを行うようになった。 さらにモーメント機能を提供すると政治的に偏った内容を並べるようになったりもした。

Twitterがしていることは、Facebookの模倣に見える。 TwitterはFacebookに対する(嫉妬に近い)憎悪をもって始まったものにもかかわらずだ。

だが、Twitterをどういうものにしたいのかということは全く見えない。 ユーザーが喜んでいないのは明らかなのに、あるいはTwitterは(広報で言うとおりに)ユーザーが喜んでいると思っているのだろうか。

Twitterはここ2年間、ずっと自滅への道を進み続けた。

崩壊する「場」

Twitterがどういうメディアであるかは、大いに観測範囲に依存する。

Twitterで愚かさを示す者が多いというのも聞くが、幸いにして私のタイムラインにはそのようなものはあまり流れてこない。 Twitterをしているのはオタクでアニメなどに詳しいと信じて疑わない人もいるようだが、私のタイムラインにおいては限定的だ。 政治的・思想的な発言(特に差別的な発言)を繰り返す人は、私は積極的にブロックしているので、目にすることはあまりない。

それを踏まえた上でだが、私の経験としてもTwitterはかつてない「飛び越えるメディア」だったと思う。

それ以外にもブログなどでpopular personと親しくなるようなこともあったけれども、Twitterは通常であれば認知はしていても接することはできなpopular personに簡単に話しかけられる。それに相応するならばそれを始まりにすることもできた。 これはかつてないことだった。Twitterがなければ意見を交わすことなどかなわないような格上の相手とも話せるのだから!!

これは、「一方的な発信でない」という点で画期的だった。 Twitterは非常に双方向性が高い。ブログでも他のSNSでも発信主体であるのに対して、Twitterはそのような性質が最も低い。

それでも多くのpopular personは時折書き連ねるだけで発信用メディアとして利用している傾向が強かった。 そうした点を鑑みるとTwitterを特別たらしめていた大きな点は積極的な双方向性を見せた企業アカウント、アイドル、そしてコスプレイヤーだったと思う。1

企業アカウントに関しては特殊性が高いし、Twitterによって企業アカウントが双方向性を持ったことについては色々と他所で考察もされているのでおいておく。

残り2者については意味的には近い。 「女性総popular化」みたいな時代の中で、「popular personとして発信しているけれども認知度は高くない人」というのがたくさん生まれた。 これは本人の中では矛盾であるし、商業的であるならば好ましくない状態でもある。 幸い、可愛い女の子にはだいたい男が群がるので、ちょっと返信するだけでも大変ありがたがられる。

どの程度それを踏まえて利用する意図があるかはそれぞれとして、popularityを確立する確実かつ手っ取り早い手段であったのだ。 「積極的なファン交流」という意味も含めて、Twitterで双方向性を持つことには大きな意味をもってきた。

だが、これはなかなか「自分を特別な位置に置く」としていると成立しない。 そのため、相手に近いところに降りて話さねばならない。これはpopular personとしての思い上がりの抑制という2意味でも大きなものを持っていた。

もっとも、このときでも妙な思い上がりと自己拡大を示す者たちもいた。 私が印象深いのは、なんだかの店が、それに属する人にアカウントを作らせて展開していたのだが、Twitter上での発言は店のルールが適用されるとし、店のルールに従わない発言を当該アカウントに対して行ったら警察に通報すると言ったことだろうか。

だが、この時点では「有意義なもの」だったのだ。

だが、そのような者にとってはInstagramのほうが容易に自己顕示欲を満たせる。 そして、「発信する特別な自分とそれに群がる下々の者」という構図が簡単に作れる。

このほうが楽だ。いくらでも増長していられるし、積極的に払うコストがない。

だが、同時にこれは意義を失った。Instagramで一方的な発信をするのは、単に「低コストな方法」というだけであり、特殊性は全くないからだ。

Instagramを好むような人が向き合わなくて済むInstagramに逃げた、という見方もできる。 だが、結果的にはTwitterに残った人の多くも「上からで一方的な発信」に傾く明確な傾向ができた3。もちろん、これは“コスプレイヤー”の急激なメジャー化に伴うものもあろうが。

さらに理由はわからないが、企業アカウントが双方向性を破棄する、あるいはアカウントそのものを取り消す傾向も強まった。 Twitterだからこそという要素がどんどん減っている。

心地よくない場

Twitterは完全ではないにせよある一定の居場所となりうるものだったと思う。 (私の場合はそうでもないが)

しかし近年、随分乱暴な言葉が増えた。 少なくとも攻撃的言動が総じて増えたのは確かだ。もっとも、データ上はTwitterが殊更に増えたわけではなく、YouTubeなどを含めいろんなところで増えているし、単純に5ちゃんねる、ニコニコ動画、はてななどのもとより攻撃性の高い人の多いメディアが場をわきまえずに流入しているという可能性が高いが。

そして、差別的発言、極度の無知と断定など愚かな発言が目立つようにもなった。

これは、

  1. Twitterの中で増えた、Twitterの住人は変わっていないがそのような言動が増えたのならメディア自体が崩壊し、荒むようなものと化したことになる
  2. Twitter外からの流入によってそのようなことになったのだとしたら、世の中はそれほど愚かな人で溢れているという可能性が高いということになる

テレビなどを鑑みるに後者である可能性が高そうだが。

行き場がない

「人は本質的にコミュニケーションを求めるのではないのだろうか」という発言は、かなり以前からしている。 きっかけは多分、「Twitterですらリアルでのつながりを前提とする傾向」に対するものだったと思う。

みんなそんなにリアルでの出会いに恵まれているのだろうか? 私は中学高校のときの友人たちとはそれきりだし、仕事ではプライベートのつながりはないから特にプライベートなコミュニケーションをとることもない。 そもそもそんなことでは自分の生活圏の人しか出会えないし、それはどうしたって「自分と属性が近い人」に限られてしまう。

そんなの面白くない。 世界には多様な人がいるはずなのだ。 だから、私のつながりは主にチャットで築かれてきた。

しかし偏った思想のneophobiaたちによって、「ネットは悪だ、ネットで知り合うのは犯罪だ」というプロパガンダが繰り広げられ、私達の居場所は剥奪されてしまった。

果たしてTwitterがそのようなコミュニケーションの「拡がり」を意識していたかはわからない。 そうあるべきなのかもわからないが、少なくともTwitterは公共の場であることは確かで、望まない人に読まれたり、反応されることを悪しとするようになったのはTwitterというメディアのあり方を利用しながら逸脱していると言えるだろう。

例えTwitterがコミュニケーションを拡げるものでないとしても、出会いの場4として機能するものでないとしても、他のメディアで交流がない人と交流できる、という点は大きく、直接交流しないとしても観測できることには大きな意味がある。 私にとってはまつもとゆきひろさんや、緑の恐竜先生だけど、スポーツ選手や、作家や、アイドルだってそうだろう。

成瀬さん5には何度か貴重なご意見を頂いたし、間違いなくそれは私にとって成長の糧となっているが、Twitterをやっていなければそれは得られなかったものだ。

しかしそれは彼らがいればこそ実現するものであって、彼らがいなければ当然に成立しようがない。 Twitterをやる意義には「そこに誰がいるか」ということがとても大きいのだ。

だから、メディアとして代替するものが現れたとしても彼らがいないので価値がまるで違ってしまう。

Yet Another Twitter

さらに文化的理由が加わる。 MastodonはTwitterの代替として期待されたが、実際のところ公式のMastodonインスタンスは基本的に「オタクのもの」であり、大部分のユーザーはいわゆる「アニメアイコン」である。

さらにニコニコや5ちゃんねるの文化である用語や罵詈雑言に溢れ、ネガティブな、特に攻撃的な発言ばかりで溢れている(Mastodonはローカルタイムラインによってそのインスタンス全体の発言を見ることができる)。 さらに、検索機能もろくにないため、自分が接したいユーザーを見つけることが不可能だ。

ソフトウェア的にはGNU Socialだってあるのだが、基本的にこのようなSNSはうまくいっていないように思う。 Vivaldiだって当初はSNSを持っていたのだが、あっという間になくなった。

SNSはユーザーがいることが命なので、スタートアップが大変に難しい。 これは、今までいくつかのコミュニケーションサイトを運営してきた私の実感としても思う。

結局、Twitterこそが求めているものだがTwitterが邪悪になってユーザーの追い出しにかかっているからTwitterから出ていきたいのであって、となると人々が必要としているのはYet Another Twitterであり、言い換えるならば「かつてのTwitter」なのである。

だが、ユーザー集め、規模とインフラ、そして資金的な問題、 さらにはTwitterが始まったときよりもはるかに厳しくなった法規制…と様々な問題が立ちふさがり、今のところYA-Twitterは出てきそうにない。

出ていきたいが行く場所がない。 Twitter自身もそう高をくくっているので独裁的な振る舞いをやめようとしない。

果たしてNet worldはどこへいくのだろうか。


  1. “コスプレイヤー”という単語に対する妥当性はここでは置いておく。気になるのであれば、「コスプレイヤーを自称する人」としよう。↩︎

  2. だいたいの人が覚えていないし認知していないとも思うのだが、私はまぁまぁpopularだったことがある↩︎

  3. これは私のAI研究の付随研究でデータ分析上明らかになっている。↩︎

  4. 出会い=異性目的のような謎の風潮があるが、もちろんそのような意味ではない。↩︎

  5. Rubyコミッタの方である。↩︎